【アンドロイドは電気羊の夢を見るか?】 感想2 フィリップ k ディック

⭕️あとがきから

⚫︎ディックの一貫したテーマとして現実の探 究、物質的世界の背後に隠れた真実の発見がある。

⚫︎ディックはブレードランナーの完成を待たずして急死。

◉後藤 将之 評論から一節

" 短編「人間らしさ」に付されたコメントでディックはこう語っている。

「わたしにとってこの作品は、人間とは何かという疑問に対する初期の結論を述べたものである。…あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない」

ここに「ディックのもっとも基本的な世界認識がある。ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。親切な存在はすべからく「人間」 であり、それ以外は人間ではない。ここで彼が、この非人間的性質の比喩としてのみ、「アンドロイド」を持ち出している事を失念してはならない 。ディックは、「アンドロイド」と「人間」 の形式上の区別には関心がない。 コピーも原物も、親切であればすべて本物である。

ディックはこの点において、昨今のサイバーパンクの射程をすでに超出していた。サイバーパンクの一部では、機械と人間の融合ないし境界侵犯が一種の強迫観念的なモチーフとして現れる。だが、ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純なニ分律は棄却されている。彼が問題としていたのは、人間と機械の、その双方における、「人間」性および「アンド ロイド」性の対立の構図である。
従って、長編『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 においても、そこに「人間」 として登場する者も、「アンドロイド」として登場するものも、 全て、「人間」であり、 かつ「アンドロイド」でもありうる。 「電気動物にも生命はある。たとえ、わずかな生命でも」。したがって、この長編中、人間もアンドロイドも、ともに、親切な場合もあれば、冷酷な場合もある。ディックが描こうとしたのは、すべての存在における人間性とアンドロイド性との相剋であって、それ以外のなにものでもない。"


◉個人的感想

20年ぶりぐらいの再読

物凄い面白いかと言われればそうでもない。かといってつまらないかといったらそうでもない。

映画ブレードランナーの脚本も、もう少しデッカードの動物に対する執着心を描いてくれるとデッカードのキャラクターとその時代(本物の動物を手に入れる事は難しい未来)の世界観が浮き彫りにされてよかったのではと思った。

リック デッカードの人間臭さが良い。


ブレードランナーもかなり久しぶりに見たがストーリー的にはかなりあっさりだった。(そこが良さでもあるが)